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岩倉使節団が得た理想の日本像は小国主義

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公開日付:2013.11.15

(1)「温故“奇”新」より「温故知“真”」を

 世界の情勢が激動・混迷する現代、「原点回帰」や「温故知新」が大切だと強調されている。
 まさにその通りだが、しかし昨今のわが国の実態は、その善悪より、ただ一般とは違った奇異な言動で、目立ちたい、世間の話題になり有名になりたい、お金儲けをしたいなどといった浅はかな「温故“奇”新」になっている傾向があるようだが、今、必要とされることは、むしろ「温故知“真”(過去の貴重な体験から物事の真理を悟ること)」ではなかろうか。
 近年のわが国では、グローバル化に伴うモノ・カネ・ヒトの自由化の進展で、政・官・財・民を問わず、各層の日本人が、ビジネスや観光、留学など多様な目的で、海外渡航をする機会が増大するようになり、平成20年度では、邦人の海外正視出国者総数が約16,000千人(内、公用・ビジネス目的が主体と推察される30~59歳代は約9,280千人、構成比約58%、観光目的が比較的に多いと推察される60歳以上が約2,830千人、構成比約18%)、それに対する外国人の正規入国者数は約9,150千人で、外国人の入国に対して、日本人の出国は約6,700千人の出超となっている。また、小・中・高校生海外在留者数は約11千人であると公表されている。
 いずれもその後も依然として増勢傾向を辿っていることは、国際交流の促進という意味では誠に結構なことである。
 だが、果たして彼らは、どんな明確な目的意識を持って海外に渡航し、諸外国から何を学び取り、好印象を与え、国際親善や相互理解の向上にどのように役立ってきたであろうかという点では、諸外国からは、概して「日本人旅行者の多くは、言語力もあってのことだろうが、事前に訪問先国の事情や風習の理解もせず、日本人の添乗員に引率された集団のパック旅行で、彼らの仲間だけで日本語の会話を交わし、有名な観光地や免税みやげ物店に殺到し、カメラと財布を手に持って貸し切りバスから降りるや、あわただしく写真撮影をしたり、みんなが同じような高額ブランド商品を大量に買い漁って、津波の襲来のように短時間で押し寄せ去って行くので、上得意客ではあるが、地元民と自由な挨拶や会話、交流もせず、ホテルに着くやロビーの立派な椅子の上に大きな荷物をどすんと置き、辺りを警戒心を持って見回すので、まるで海兵隊の奇襲上陸攻撃を受け、自国の拠点占拠をされたような感を抱かされ、何処に行っても日本の流儀をそのまま持ち込み、その国の風習にじかに触れ打ち融けようとしない」などと評されていることからも、些か疑問である。
 それに対して、現代とは比較にならないほど、海外の情報量も少なく、交通も不便であった明治維新時の岩倉渡米欧使節団の場合は、何を“観”て、どう感じ、それを近代日本の建設にどう活かしたのであろうか?

(2)岩倉渡米欧使節団の成果の評価

 過日、たまたまその使節団の一員であった権少外史(現在の書記官)久米邦武氏の末裔にお会いし、その著による報告書ともいえる「米欧回覧実記」に触れる機会を得たので、本稿ではこれをテーマとし、今再び、平成維新で新しい日本再構築を考えるにあたってのご参考に供しよう。なおこの執筆においては、筆者が予ねてから主張してきた、日本の優れた築城技術の「大小の岩石の乱積みの堅牢さ」にたとえた国家・社会の安定化論にも通じ、わが意を得たりと共感する面があるので、北海道大学名誉教授であられた日本近代史学者田中彰氏の著書「小国主義~日本の近代を読み直す」を多分に引用させていただいた。
 岩倉使節団とは、先刻ご承知のことであろうが、幕末の1853年の黒船ことアメリカの軍艦4隻の江戸湾強行来航による開国・日米通商協定締結要求に端を発し、日本の国内が鎖国か開国かで二分して大混乱し、その結果250年余も続いた徳川幕府が1868年についに瓦解して大政奉還をすることとなり、薩摩・長州の両藩を主体とした明治維新後の新政府が樹立された直後に、オランダ系アメリカ人宣教師G・F・フルベッキの助言を受けて、今後の日本を、当時の世界の先進諸大国に見習って、どのような体制の近代国家とすべきかを考案するにあたり、国家的プロジェクトとして結成され、欧米諸外国の巡視と親善のために派遣された使節団のことである。
 使節団は、太政大臣三条実美、西郷隆盛、板垣退助などの代行留守役を除き、
①岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、新政府の主体を成す首脳部の大部分が自ら参加し、それに②身分や出自、社会・政治的地位に関係なく幕末・明治維新時に活躍した実力者や、国際的対応力を有する有能な専門実務・技能者、皇族などを含めた多様な顔ぶれ、③最年長者でも47歳、最年少18歳、変革期の特性である20~30歳代を中心に、平均32歳という若さ、④総勢46名という大人数で編成され、④伝統的な大国だけでなく、新興の大国や小国も含めて視察するという特長を有し、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスという順番で、合計12カ国を歴訪する計画を立て、その目的を、①友好通商条約締結への国書の奉呈、②押し付けられた不平等な条約改正のための対策の探求と予備交渉、③先進的な近代国家の統治制度、教育制度、文物、生産技術、民衆の生活ぶりなどの視察と調査、④産業革命後の欧米中心の世界動向調査・研究、⑤日本を近代統一国家に構築するためのモデル国と選択肢の模索、⑥欧米の、好ましく見習うべき生活態様の習得としていた。
 一行は1871年12月22日(明治4年11月12日)に横浜港から渡米欧の途に出て、1872年1月15日に最初の訪問国アメリカのサンフランシスコに到着し、以降、前記した12カ国を歴訪し、1873年7月20日にフランスのマルセーユ港から乗船して帰国の途につき、1873年9月13日に帰朝し、都合1年9カ月に及ぶ長旅を終えて、大きな国家プロジェクトの使命を無事に果たした。
 その間、アメリカでの滞在は約7カ月(航路の移動期間を除く)、以下イギリスが約4カ月、フランスが途中経由も含めて2回で計約3カ月半、ベルギー約1週間、オランダ約2週間、ドイツが途中経由も含めて2回で計約1カ月半、ロシア約2週間、デンマーク約1週間、スウェーデン約1週間、イタリア約1カ月、オーストリア約2週間、スイス約3週間の滞在ということになり、昨今の議員団の物見遊山主体の外遊とは異なり、極めてハードな実質的視察・学習主体の渡航であったことが窺える。
 ところがこれらの目的のうち、外交上の重大課題であった②の条約改正問題で、具体的な成果が得られなかったので、この大規模な使節団の米欧訪問は帰国後、あまり高く評価されず、渡米欧報告書で提唱されていた、後述する「小国主義を選択すべし」という見解も無視され、その後は明治時代の後半、大正時代、昭和の敗戦に到るまで、欧米に伍した殖産新興、富国強兵の大国主義、帝国主義の道を突き進み、敗戦後の復興に際しても、依然としてこれを踏襲してきた。
 しかし、資本主義の歪が露見し、ロシア、イギリス、アメリカ、中国などといった諸大国の繁栄の挫折や、巨大化し過ぎた結果の横暴さや社会の荒廃などが問題視されるようになった近年になり、今再び、「ただ大きいだけが良いこと」ではなく、改めて岩倉使節団が得た渡米欧目的の③と⑤の成果、新日本の理想像は「大・小さまざまな国の存在価値」や「小国主義」という提言が見直されるようになってきた。
 この使節団の優れていたことは、先ず①国家統治のトップクラス自らが現地に渡り、その実体を自身の足で見て、頭で歩き、肌で感じ取ったこと、②そのものの見方も、ただ映像的に米欧の華やかな繁栄の外観に目を見張ったり、憧れたり、畏怖・畏敬するだけでなく、冷静にわが国の置かれた立場や環境条件を念頭において、意識して観察し、長・短所を鋭く看破し、わが国が見習うべき事項と見習うべきでない事項を鋭く洞察して診断したこと、③渡航メンバーに、過去の固定概念に捉われず、明日の新時代を担って立てる各分野の逸材の若者を主体とするなど、将来を深慮して選抜したこと、④有能なテクノクラート(官僚)に各専門分野を分担させて視察・調査し、多角的な見地からの情報に基づき、最終的な総合判断を導き出したこと、⑤訪問国として、伝統的な大国だけでなく、アメリカのような新興国や、特性を発揮している小国を織り交ぜ、それぞれなりの成長発展、政権の維持策、生存の要件などを研究したこと、⑦もちろん、地理的条件、国土面積の広狭、移動距離や手段なども考慮したであろうが、目的や課題の軽重に応じ、滞在期間にアクセントをつけ、当然報告書の記述も、一律のページ数配分でない重点の置き方を配慮したこと、⑧当時としては一般的な世界回遊のコースとしては、先進地ヨーロッパから大西洋を航路を経てアメリカに回遊するのが通常であったが、使節団は、この逆の太平洋航路を選択し、先ず新興大国アメリカに渡り、最重要外交課題として不平等な通商条約の改正交渉、関係改善を最優先したこと、⑨前記した久米邦武など優秀な書記官たちに克明な記録をさせ、貴重な指摘や提言も含めた立派な結果報告書「米欧回覧実記」をまとめあげたこと、⑩その中で、既成の伝統ある大国より、急成長発展したアメリカや、大国に囲まれた小国の生き様から受けた刺激の方が強かったとしていることなどである。

(3)「大国主義」と「小国主義」

 使節団がまとめた報告書で注目すべき点は、「明治維新後の新日本の建設に関しては、大国よりむしろ小国の生き様からの方が学ぶことが多かった」として、新日本は強者の立場より、謙虚にまだ弱者であることを認識し、「小国主義」の選択が望ましいと指摘していることである。
 そこで「小国主義」の善・悪を考える前に、先ず「大国」と「小国」の概念について整理をしておこう。
 辞書の定義によれば、「大国」とは、「国土面積が広大で人口も多い国」、「政治・軍事・経済力などが強大な国」、「律令性時代の大和国家で、領地面積や居住人口などで各地域を4等級に分けた中の第1等の国で、延喜式では大和、河内、伊勢、武蔵、上総、下総、常陸、近江、上野、陸奥、越前、播磨、肥後の13カ国をいう」となっており、一方、小国とは、「領土が狭く、人口も少ない国」、「勢力の弱い国」となっており、いずれにしても、国土面積の大小、人口の多寡、勢力の強弱という3点セットで判定され、国家統治能力の偉大さや安定感、人民の生活水準や教育水準の良否、周囲への影響力の強弱、国際貢献度の大小などといった質的な面からの評価や表現はされていない。
 同じく、「大国主義」とは、「国際関係において、自国の強大な政治・軍事・外交・経済力などを背景にして、他の弱小国を威圧し、服従させようとする高慢な態度」となっており、この傾向が過度になると、「武力や権謀で競争者を抑えて得た覇者としての権力を行使する傲慢な国家姿勢」とした「覇権主義」や、「軍事力・経済力などで他の後進・弱小国や民族を威圧的に征服し、支配して、独占的な強大国家を建設しようとする国家の姿勢」とした「帝国主義」にも通じかねないので、この巨大化や思い上がりの増長は好ましくなく、要注意である。
 「小国主義」については、まだ新しい概念であり、国際的に認知・評価された考え方や体制とはなっておらず、したがって辞書での解説や有識者による定義づけはない。
 それでは使節団は、大・小それぞれの国の印象や長・短所につき、どう受け止め、評価をしたのであろうか。
 最初の訪問国アメリカは、当時は建国後百年という歴史の浅い新興国で、第2のヨーロッパと思われていたが、従来のヨーロッパとは異なり、その因習や門地、身分制度などに拘らない、全く民衆主体の自由闊達さで急成長発展して大国に列することになった国であるし、巨大な黒船の威力も見せつけられていたから、訪問前から強い関心を寄せていたが、案の定、目にするもの耳に聞くこと全てが鮮烈であり、広大な未開の土地を少数の移住民で驚くような短期間で開発整備した、その旺盛な開拓者魂や自由・自治・自助・自立の精神、資源の豊富さ(物力)などなど、大きな刺激を受けたとし、全百巻にも及ぶ帰国後の報告書でも、その5分の1の20巻をあてている。
 しかし冷静な洞察や分析・評価も忘れず、その発展エネルギーの源泉は「物力」に恵まれ環境と生産力(経済発展力)があったことと、勝つためには手段を選ばずの積極的で攻撃的な競争心が強いこと、自由さは国民のやる気の向上や活力として発展途上では有効だが、下層民までが完全に自由・平等とはいえず、風俗は自ずから不良となり、巨大に成熟した国家や社会では、その安定と秩序の維持といった面からは、その行き過ぎは統制がとり難くなり、貧富格差の弊害もあること、わが国とは基本的な環境条件にあまりにも違いがあり過ぎて、必ずしも参考にはならず、そのまま平行移入的な亜流の導入は好ましくないなど、まさに現代を予見していたかのような洞察の鋭さであった。
 当時全盛期にあったイギリスに関しては、その発展の要因は、島国であるが故の進取の気性、積極的な海外との交易による資源の確保、産業革命後の資本主義の発展、機械生産技術の進展、生産力の増大に見合った商業経済・貿易の拡大にあったとしながらも、その根底には、狩猟民族アングロサクソンの狡猾な、武力侵攻によらない植民地化政策による実質的他国侵略・支配、未開発国からの資源という富の収奪があったことや、従業員の解雇とそれに対抗するストライキを目の当たりにし、資本家重視の冷徹さや貧富格差の増大などといった資本主義社会の矛盾も使節団は見抜いていた。
 ロシアは当時、まだ共産主義国でなく、1860年代に制度的には農奴解放を行ったとはいえ、それは名ばかりの階級社会であり、貴族の専制国家として全盛期にあったが、不利な気候条件もあり、広大な領土を有しながらも未開発の凍土地が多く生産力も低かったので、使節団は、いずれ民衆の不満の爆発からの内政混乱、権力闘争、貴族社会の崩壊があるものと感じ取り、あまり見習うこともなしとしていた。
 使節団の実記にある大国には、この他にドイツ、フランス、オーストリアが入っていたが、この中で貴族社会の余韻が強く残っていたオーストリアについては、音楽など芸術的な畏敬の念はあるが、わが国の幕末の徳川家と似ており、今後の新日本建設の参考にはならないと評価が低い。当時は、英・仏が栄光の全盛期で、世界をリードする国として君臨していたが、民衆革命後共和国となったフランスについて使節団は、肥沃な土地と豊かな産物、優れた伝統的芸術と文化を持つヨーロッパの代表、文明の中枢地に相応しい国との好評価をしているが、それには訪欧前に既に世界で初の博覧会が開催され、わが国、とりわけ薩摩藩も出展した縁からの親しみと畏敬の念もあったであろう。ドイツに関しては、その国民の勤勉実直さ、規律を守る厳格さ、損得抜きの丹精を込めた職人気質の精密な技巧、伝統ある中小規模な家内工業の企業が国の経済を支えていること、職業実務教育が充実していることなど、わが国の国民性と類似しており、地道で手堅いと高く評価している。イタリアは、大小どちらの特性発揮を考えているのかが不明な国であり、陽気で楽観的な国民性の甘さがあり、わが国とは地理学的には似ているようだが、あまり参考にならないとしていた。
 それよりも一行が特に強い関心を示したのが、陸続きで大国の狭間にあり、常に周辺国からの侵略に備えねばならず、領土や資源の豊かさにも恵まれないながらも、派手さはなくても特性を生かして個性的に逞しく生き抜いているスイス、オランダ、ベルギーなどの小国であり、これらの国の生き様の方が、今後の日本建設には参考になるとしたことである。
 国の大小や立派さ、繁栄は、国土の広狭、人口の多寡、資源の多少によらず、国民の資質と勤勉さから滲み出る品性にあり、日本はその環境条件からも、小国主義の道を選択することが好ましいと報告書はまとめていたが、ここでいう小国主義とは、「規模は小さくても偉大な国際貢献をする国」を意味し、その後の日本はこの道を歩まず、欧米追従の大国主義に突っ走り、殖産振興、富国強兵、経済の外形的大国化競争に参加したことに、現代の日本の混乱と苦境があったといえよう。

著者プロフィール

経済評論家・ビジネスドクター 芦屋 暁(あしや さとる)

幼少期の貧苦体験から「十分な教養があれば民族も国家も企業も個人も安泰」との信念を抱き、一生涯を人間能力の開発と日本経済・産業の発展に捧げる1本の杭になろうと決意し、都市銀行勤務を中退してフリーの経済評論家・経営コンサルタントの道に転身、大学の教鞭やマスコミ出演を経つつ、過去通算で全国約3千市町村を講演歴訪した実績を持ち現在に至る。庶民派で皮膚感覚の簡明率直な解説がモットー。

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