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激動期を生き抜いた江戸豪商の鉄則

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公開日付:2013.06.14

現代はまさに、アメリカの黒船来訪と諸外国からの通商要求、それに伴う開国と政権の交代という江戸末期の激動と混迷の時代に酷似している。
今から3~5百年も前の江戸時代といえば、国内的には、特定の武家による軍事政権で、独裁的中央集権の封健的な治世下にあり、厳然たる士農工商の世襲的階級社会、国際的には鎖国令で海外諸国との交流や通商が禁じられていたので、わが国の内向き閉塞・停滞の負の時代であったとのイメージで捉えられがちだが、これには明治維新後の新政権の欧風近代化を進めようとする政治的意図で実態が糊塗された影響が多分にあるが、決してそうではなく、もちろん初期・中期・末期とで世相の大きな様変わりもあったが、国際的完全孤立ではなく、限定的ではあったが諸外国との交流の窓口も開かれており、概して、先進他国の支援や干渉もなしに、与えられた環境を巧みに生かし、ほとんど全てを独自の努力と工夫で平和を持続させ、秩序正しい社会を築き上げ、両替や米相場、先物取引など、世界に先駆けた経済・金融システムや官営・民営の教育制度なども生み出し、ものづくりや商業が大いに発展し、世界からも、最も美しく豊かで穏やかな稀有の存在の国、中世から維新後の欧風近代工業化を見事に開花させるための有益な橋渡しの期間であったと高く評価された時代であったのである。
したがって、当然、時代の進歩もあるから、すっかりそのまま踏襲すべきというものではなく、現代的アレンジは必要だが、今日とは比較にならないほど情報量も経済発展や事業経営のノウハウも少なく、政策的な事業支援体制もなかった当時の豪商たちが、太平の江戸から維新後の近代国家へと転進するその大変革の苦難期を、不変の真理や伝承すべき良き伝統は守りつつ、自律と自助の努力でどう生き抜き、事業の存続発展を図ったかという、貴重な体験例から改めて学び直すことも、温故知新、原点回帰の見地から大いに参考となろう。

1 江戸豪商の源流の多くは愛知県以西の広域関西地方が発祥

申すまでもなく、1590年に徳川家康が移封されて開拓に着手し、1603年に幕府を創立するまでの江戸は、武蔵国豊島郡の一部、原野と大川尻の中州湿地帯という未開の一寒村に過ぎず、入り江の戸口(現在の日比谷、虎ノ門、赤坂辺りまでは海苔が採取された入り江、丸ノ内オフィス街は後の埋立地であった)がその地名の由来で、東西約5キロメートル、南北約6キロメートル、約30K平方メートルで現東京都23区部面積の5%弱の広さでしかなかったが、そこに中期で人口約100万人、入府後約270年余を経た末期1867年の人口は約130万人、人口密度は約3万人/K平方メートルとすでに世界唯一の人口100万人以上の最大都市となるまでに急発展したのである。
家康は江戸の開発整備に当たり、「風水」の原理と先見の明に基づいた国家建設や街づくりを深慮し、先ず人材第一と考え、上方の先進地とされていた畿内(関西地区を主体に全国各地から有能な技術者や商人を誘致し、水と塩の確保、街区と道路、陸路と水路の物流などのインフラ整備に注力した。
だから東京は今でも、諸地方民の集積地といわれ、昔から土着民(純粋の江戸っ子)は総人口の5%程度でしかない。
江戸の老舗豪商や企業といっても、三越の三井家は福井出生で伊勢松坂が発祥、寝具の西川家は近江八幡、羊羮虎屋の黒川家は京都、百貨店の高島屋や大丸も創始は京都や大阪の呉服商、クレジットデパートの雄である丸井は富山、小田原名物梅干の美濃屋は美濃の落ち武者、明治維新後に成長を遂げた三菱財閥の岩崎家は土佐、住友財閥は京都出身で大阪発祥、パナソニック、シャープも、世界に先駆けた市場相場制や先物取引の創始も大阪から、鰹節や馴れ鮨の発祥は和歌山県、人形町の商人の先祖、有名な佃島のつくだ煮や高級料亭吉兆の元祖、庶民娯楽の演芸と芸能人なども三河以西の広域関西人が主流を占めるが、彼らの多くは、徳川家康が江戸の町づくりや食料供給、人心掌握のために入府時に引きつれてきた関西商法を身につけた有能な技術者や商人が、その真髄を体現したものである。
よって本稿のタイトルも、実際は江戸豪商の商法でなく「関西商法に学ぶ」と置き換えた方がむしろ適切かもしれないが、近年は本場の大阪経済地盤の沈下、東京一極化が進み、多くの関西発祥の企業が実質的本社機能を東京に移し、江戸市場でもその経営理念や手法を引き継いで発揮し、根付いて大きく開花し、繁栄を維持してきたので、あえて江戸豪商と称することにした。
また、第2次世界大戦の終戦後、目覚しく発展した新事業が、パチンコ、ビジネスホテル、餃子などの飲食チェーン店、料理教室、学習塾(緒方洪庵の適塾が発想源)、小狭1戸建て住宅群、月賦販売など約35業種程があるとされ、それらのうちの約8割が、これも同じく大衆市場に強い名古屋以西の広域関西地区発祥である。
もっとも近年は、こういった俗に言う関西商法の理念や真髄、特性が薄れ、いずこも同じように、アメリカ流の資本主義、収益至上の商業主義、拝金主義に塗り替えられてしまったが、それが昨今の大阪経済地盤の沈下に連なり、比較的にこれに染め変えられず、保守的に頑固に関西商法の良い点は守り通し、地味だが手堅くしぶとく、逆境期にこそ真価を発揮し健闘しているのが、京セラ、島津製作所、任天堂、タキイ種苗などに代表される京都、近江型の経営理念や手法であるといえよう。

2 江戸豪商経営法(近畿・関西商法)の真髄

では次に、こういった江戸豪商の経営法や生き様はどういうものかを、いくつかの例を述べながら考察してみよう。
江戸の老舗豪商の経営法こと、本来の畿内・関西商法の根底を成す理念や手法の真髄を最も端的に表現している代表的なものとしては、大阪の商家の生まれで、元禄時代の戯作者として有名な井原西鶴著「日本永代蔵」、三井財閥の二代目当主三井高房の「町人考見録」、関西系財閥の筆頭住友家の「家訓」、江戸末期の篤志家二宮尊徳の「報徳仕法」であろう。
井原西鶴は、富を得たいと願う者が尊重し厳守すべきこととして、(1)始末、(2)算用、(3)才覚の三項を指摘している。つまり、始末とは冗費・乱費の節約、ケチと始末は異なり、必要経費は惜しまず有効に使うこと、算用とは勘定、現代的表現では収支や財務の数値的管理と、収益採算意識の重視、入るを計り支出を制すること、才覚とは、鋭敏な時代感覚で知恵と身体を用いて勤勉に働くことに尽きるとし、そのためには、本業専一に精を出すこと、早起きして健康に留意すること、美食と淫乱を抑制し、ギャンブル好みや服装に凝ること、主人自身と家族の贅沢と、風雅な趣味にのめり込むこと、ぼろい儲け話に安易に乗ることなどは厳禁としている。
後に政商といわれるようになった三井財閥だが、創始者三井高利、その志を引き継いだ高房は、政治家や芸人への融資やお金のつぎ込みで踏み倒された体験から、政治や芸事への深入りや融資は厳禁、成功の自慢話より失敗例から学ぶことの重要性を強調している。
京都の茶道家から転じて製銅業となって財を成した住友家の家訓は、「些かも浮利(浮ついた目先の巨利)を追うべからず」とし、小欲に捉われて大欲を見失わず、常に信用と堅実経営第一で励み、先苦後樂、損して元をとる算盤のはじき方の深さ、人を大切に扱い育てることを重視としている点が特徴である。
俗に「住友はガメツイ」と、お金に細かく、利得に拘り狡猾だと誤解されているようだが、関西方言の「ガメツイ」の真意は、収支管理や採算意識がしっかりとしており、無駄な見栄を張ったお金使いには厳しいが、目の付け所が鋭い商売才覚とその巧みさを賞賛するものであり、大阪商人がよく言う「儲かりますか?」も、お金への執着や他人の懐具合を探るものではなく、プロの商人として「お互いにしっかり頑張って儲けましょう」と励ましあう、権力に対抗心を抱く庶民の町ならではの挨拶言葉である。
一介の古着の行商人から日本を代表する百貨店の一つになった高島屋の始祖である飯田新七は、井原西鶴が説く商売繁盛の鉄則の実践者である。
越前敦賀の貧しい家に生まれたので12歳で京都の小さな呉服店の丁稚奉公に出され、やがて大きな荷を担いで大津方面まで売り歩く行商を担当することとなったが、常に誰よりも規則正しい早起きで、誰れ彼となく顔を合わせる人と交わすにこやかな挨拶と勤勉さが近隣やお得意先の評判となり、米穀商飯田家の一人娘の婿として迎えられることとなった。しかし彼は米屋よりどうしても初志の呉服商がやりたくて、養父に許可を申し出、老舗の呉服商が上得意をがっちりと握っているから参入は困難と最初は承認を渋っていた養父も、ついに彼の熱意に負けて、古着の行商から始めるならと転業を許したのである。
幸いにも、一人娘ながらも夫に尽くす良い嫁であったので、当初は仕入れ資金が乏しく、満足な売り物もなかったが、それなら自分の着物を売るようにと協力し、屋号も養父の出生地近江の高島郡から高島屋と決め、更なる勤勉を続けてお客さま本位の商売を心がけ、ついに念願の新品呉服を扱う自分の店を持つようになり、そんな律儀な商法を後継の子息たちも引継いで、現代の高島屋百貨店の基礎を築いた。
二宮尊徳は小田原の農家出身だが、勤勉で、勉強熱心、父親の代で没落した農家を再興し、その実績と手腕や思想が認められて小田原藩の財政再建にも召し出され、その後更に全国各地の農業振興指導者として迎えられ、多大な貢献をした。
彼の指導基本理念は、自己の利得より、先ず相手のニーズと利益を優先するサービスの先出しに徹し、その徳を売った結果の謝礼として自分にも利益が与えられるとする「徳利方式」、「報徳仕法」というものであり、その精神が全国的な指導先各地に未だに伝承されて根付いており、例えば野球で有名な兵庫県の報徳学園の校名も教育方針も、彼の理念に基づいている。
現在の小田原のお土産名産品といえば、梅干と烏賊の塩辛、沢庵の漬物、それにお菓子の外郎(ういろう)である。
現代の和菓子やお茶は、元来、中国では健康長寿の薬として珍重されたものであり、今は名古屋がういろうの発祥地のように思われているが、小田原の老舗薬商外郎藤右衛門のういろうこそが、足利時代からの歴史を持つ本家本元の始祖である。
外郎家は中国の元帝に仕えていた陳という文部高官であったが、戦乱を逃れて来日し、その能力を買われて足利将軍家に召抱えられ寵愛され、帰化して外郎と名乗っていたが、やがて退官して小田原で薬商を開業し、当初は薬として売っていたものを、日本人向けになじみやすく食べやすい菓子として改良し「外郎(ういろう)」と名づけて販売し、大ヒットして財を成した名門老舗中の老舗で、現在も人気があり観光客が絶えない。
その外郎家を頼って戦国時代に小田原に逃れてきて、武士から商売の道に転じたのが、もう一つの小田原の名産品梅干と塩辛で有名な老舗の美濃屋吉兵衛である。
美濃屋吉兵衛の元の姓は浅井で、戦国時代に北近江の名門で織田信長の妹お市を政略結婚で嫁に迎えながら、結局は越前の朝倉と組んで織田信長の上洛の野望を阻止しようと対峙し、敗れ去った浅井長政の分家、美濃の浅井家の武将であった。
彼は刀を捨て武家から商人になって生きようと決意し、外郎家に商売の道の教えを請い、戦国武将として転戦した時の体験から、戦時の軍兵の携行食材として腐敗せず、喉の渇きを癒し、薬としても有益で調理も不要な梅干を商売にしようと考え、宣伝上手で売り出して成功し、太平の江戸時代になってからは、武家だけでなく、箱根山越えの旅人向けにも民需品として売り、更にはその関連食材商品として、地元の漁師が大漁の烏賊の値下がりと捨て場に困っているとの話を聞き込み、この救済策として一括して大量に買い取り、その活用法として塩辛にして売ることを考案、次にはまたその関連商品として、地元産の沢庵の漬物を売出すなどヒット製品開発を続けて大儲けをし商人として大成功をおさめ、それが現在に至るまで小田原の名産品となっているのである。
商売上手な近江商人の商法の秘訣としては、「往復両天秤」とか、「三方良し」というのがあり、それは近年の企業経営でも重視されるようになってきた「CS(顧客満足志向)」や、「CSR(企業の社会的責任)」にも通じ、その原型ともいえる。
「三方良し」の商法理念とは、江戸中期の近江商人で、麻布の行商人として他国にまで売りに出向き財を成した中村治兵衛が、後継の孫当てに書置きした遺訓の中に記された言葉である。
それを現代語に訳すと、事業や商売というものは、自己の利益の追求を図るだけでは、かえって儲からないものである。企業やお店は、「社会の中に存在し、社会(市場)を活躍の舞台とし、そこに存在する顧客を相手にし、その支持を得てこそ事業や商売が成り立つので、社会と共にあることを認識し、先ずはその市場や顧客の必要や期待は何かを理解し、社会の要請に応え得る商品やサービスの開発、提供法の考案に務め、その満足と繁栄を願い、その結果の感謝料として、提供業者側にもそれに応じた適正な利益がもたらされるものであるから、国家や地域社会の発展への貢献、市場や顧客の満足、それで得た企業利益の社会や顧客への還元という「三方面それぞれに喜ばれる良いサービス方法を考えねばならない」というものである。「往復両天秤」は、行商の売りと、帰路も空荷出なく仕入れを考えることだ。
最近、各企業で強調されるようになったCO(顧客志向)やCS(顧客満足志向)なども、筆者が常に提唱してきた、「顧客志向とは、顧客に迎合することや、サービスの押しつけでなく、「顧客指導、顧客の培養・育成、顧客主導」でなければならない」ということ、「良い稲の収穫は、先ず良い田作りから」であり、地域社会の発展と共に事業も栄え、買っていただける環境づくりから取り組むという戦略的マーケティング・マネージメントも、企業が儲けるための策略といった「儲けティング」であってはならず、先ずは「社会や顧客のニーズに応えるサービス優先、利益はその利用料、感謝料として追随し、儲けさせていただける」といったことにも通じるものであり、やはり古今東西、何事も、真理は一つで永久不変ということであろうか。
最後のまとめとして、激動と混迷期を克服し、企業寿命が昔50年今25年と短縮化傾向にある中で、しぶとく生き抜き永続発展し続け、しかも逆境期にこそ、その健闘が目立つという優良企業の共通要項を改めて列挙しておこう。

  1. 貴重な苦難や失敗・成功の体験から培った、独自の伝統ある立派な家訓、社是・社訓が設定されており、それを口先や経営者だけでなく、全社員にも明示し周知徹底を図り、誇りをもってこれを尊重・遵守・体現していること。
  2. 同族世襲経営の企業も未だに結構存在するが、それだけに実力が伴った後継者の育成には注力していること。象徴的な存在の場合は、有能な補佐役の存在が必要条件で、これが実質統治する。
  3. 伝統に甘んじるのではなく、その良い点を継承しながらも、常に新感覚の導入を図って付加し、活性化を心がけ陳腐化を防いでいること。
  4. 信用を重んじ、目先の自利益より顧客利益とサービス優先で、固定客を大切にし、派手さを慎み、始末である。商品に魂を込め、安売り競争をしない。
  5. 一発屋的冒険を好まず、強みのある本業に専念、投機的事業には絶対に手を出さない手堅さを重視していること。
  6. 時流にあった多角化を図る場合でも、軸となる本業に関連する枝葉の分野であり、幹に合わない接木や移植はしないこと。
  7. 事業をめぐる環境の変化には敏感だが、慎重に対応し、その環境に適応する自らの新陳代謝を怠らないこと。
  8. 社員の教育に熱心で、躾には厳しくよく叱り、信賞必罰、餌と鞭の使い分けが上手であること。

「ローマは一日でならず」といわれるが、老舗企業の信用の維持もまた一朝一夕では不可能である。しかし、たった一人の社員の一瞬のミスで脆くも失墜する。竹は風雪に逆らわずしなやかだが、逞しい姿勢を失わず常に緑を保つ。やはり節目が強く根がしっかり張っているからだろう。そんな優良長寿企業が多いのが日本の誇りだ。

著者プロフィール

経済評論家・ビジネスドクター 芦屋 暁(あしや さとる)

幼少期の貧苦体験から「十分な教養があれば民族も国家も企業も個人も安泰」との信念を抱き、一生涯を人間能力の開発と日本経済・産業の発展に捧げる1本の杭になろうと決意し、都市銀行勤務を中退してフリーの経済評論家・経営コンサルタントの道に転身、大学の教鞭やマスコミ出演を経つつ、過去通算で全国約3千市町村を講演歴訪した実績を持ち現在に至る。庶民派で皮膚感覚の簡明率直な解説がモットー。

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